がんになった話(パート1:がん発覚)

Life

オアシス来日公演の記事をアップしたところ、色々な人にこのブログにアクセスしてもらえるようになった。そこで、私自身のことを知ってもらいたいと思い、早期退職前の出来事に触れよう。

大腸がん
僕が50代の前半で、30年間勤務した会社を辞めて「主夫兼旅人」になった最大のきっかけは、40代後半に大腸がんが見つかったことだ。

内視鏡検査
年に一回受けている人間ドックで潜血便があったので、内視鏡検査を受けた。少しずつ下剤を飲みながら半日かけて腸を空っぽにして、お尻から内視鏡を入れるという、なかなかアレな体験だ。

1.5Lの下剤を数時間かけて飲む

検査医は「あー、キレイですね」と言いながら、内視鏡を大腸の一番奥まで進める。僕はそれを聞いて「勝った」と思った。「内視鏡をゆっくり抜きながら、丁寧に見ていきますね」と検査医。すでに勝利(無実でもいい)を確信していた僕は、「どうぞどうぞ、じっくりと見てください」と答えた。その直後、「ん?」と小さく声を発し、内視鏡を抜く検査医の手が止まった。「顔つきの悪い」腫瘍があると言って、その一部を切除した。お尻から内視鏡を抜かれた後、腫瘍の写真を見せてもらったら、確かにその腫瘍は不規則に(検査医は「ランダムに」と表現した)傷ついているように見えて、キレイなピンク色をした腸壁とは明らかに様子が違う。「顔つきが悪い」とは上手いことを言うな、と妙に感心した。

病理検査の結果、腫瘍が悪性だったので、僕はがん患者になった。がんの大きさは1.6cmで、内視鏡手術のガイドラインに定められている「2.0cm未満」ではあったが、がんの深達度(がんの深さ)が深いようなので、内視鏡では切除しきれない可能性が高いとの所見だった。

当時、保険会社が「二人に一人はがんになる時代」と盛んにがん保険を売り込むTV CMを流していたが、まさか自分が40代後半でがんになるとは夢にも思わなかった。コロナ禍で知れ渡った「正常性バイアス」というやつだ。あんなに酒を大量に飲んでいたのに、自分は大丈夫だと思い込んでいたのだ(飲酒と大腸がん発症の間には明確な相関がある)。

病院の選定
検査を受けた病院では手術ができないということで、下記アドバイスを受けて近所の通院しやすい大学病院宛に紹介状を書いてもらった。

  • がんは手術前後に各種検査があるので、通院しやすい病院を選んだ方がよい
  • 研究目的で最新設備がある可能性が高いので、大学病院を選んだ方がよい

がんのステージ
これが、ある年の2月のこと。翌3月、紹介状を書いてもらった大学病院で初診を受け、その2週間後に再度大腸内視鏡検査を受けた(がんだと確定した後でも、手術に向けて特殊なインクでがんにマーキングするために再検査する必要があった)。その結果、やはり内視鏡では切除しきれないとの所見で、腹空鏡手術を受けることになった。腹空鏡手術は、開腹手術と比べて患者の負担が少なく、回復も早い。がんのステージは「1」で、患部はS字結腸にあった。ちなみに直近の「ステージ1のS字結腸ガン患者の5年生存率」は92.3%※。
※国立がん研究センターの公表データによる。

入院
その後たくさんの検査を受けて、手術のために入院したのは5月中旬だった。腹空鏡手術の方針が決まってから、1ケ月経っても手術の日程が決まらずにヤキモキしたが、一般的に大腸がんは進行が遅いため、緊急性の高いがん患者の手術を優先したようだった(週に一回、消化器外科の医師の全体会議があり、その場で手術の優先順位と日程を決めていると説明を受けた)。「進行が遅い」と言われても、体内にがんがあると思うと早く取り除いて欲しかった。

最初に入室した6人部屋
これが一人分のスペース

仕事
ここまで会社には適宜状況を報告していた。当時、僕は東南アジアの関係会社を担当しており、担当医は「担当地域の衛生状況を鑑みると、手術後1年間は出張を許可できない」との保守的な所見だったので、会社には無理を言って担当業務から外してもらった(結果的にこれがいい方向に働くことになる)。

いくつか御守りをもらった

手術
5月下旬に手術を受けた。朝8時半に手術室に入り、全身麻酔でいとも簡単に意識を失った。次に意識が戻ったのは17時前。3〜4時間で終わると言われた手術は、結局8時間半に及んだことになる。僕は仮死状態で意識を失っていただけだったからいいけど、控え室にいた家族は「いつになったら手術が終わるのか?」と気が気でなかったそうだ。

少しずつ意識が戻るに連れて、寒いと感じるようになった。そのうちに凄く寒くなって身体がブルブルと震えだした。いつまで経っても震えが止まらないので、家族が病院のスタッフに毛布を借りて身体を擦って温めてくれた。それでも数十分は身体が痙攣するように震え、これまでに体験したことがない異常な寒さだった。家人がスタッフに「この状態はおかしくないですか?」と訊くと、スタッフは「手術中は体温より低い温度の炭酸ガスでお腹を膨らませてオペのスペースを確保するので、臓器が冷え切って寒さを感じているんです」と事も無げに言う。いやいや、そういうことなら手術前に教えてほしかった。そうすれば少しは心の準備ができたのに。身体の震えがいつまでも止まらず、寒さで死ぬんじゃないかと思った。それ程、長時間内臓が冷やされたのは堪えた。

HCUで
手術は無事に終了し、その晩はHCU(ハイケアユニット=高度治療室)で過ごした(これは事前に説明を受けていた)。まだ麻酔で頭がボーっとしていた真夜中、スタッフが「患部のレントゲンを撮る」と言って、背中の下に鉛製の厚い板を入れようとする。いやいや、ワタシさっき手術を受けたばかりなんですけど・・・。突然の出来事だったので、背中を浮かせて隙間を作ることすら難しい。後で聞くと、このレントゲン検査は術後の合併症の有無を確認するためのものだった。炭酸ガスの件と同様に、あらかじめ「夜中にレントゲン写真を撮るからね」と教えてくれていれば、少しは心の準備ができたのに。

翌朝、目を覚ますと出勤前の家人が様子を見にきてくれた。昨日の手術後、執刀医との面談があり、手術が成功したことを説明されて切除した大腸を見たとのこと(患部を中心に左右20㎝にわたって切除した)。確かに患部は「顔つきが悪かった」そうだ。家族は患部の写真を撮らなかったので、自分のガンを見ることはなかった。いやいや、長時間待っているのは大変だったとは思うけど、そこは写真撮っておこうよ。

家人が会社に向かった後、「一般病棟に移れる状態かどうか、歩いて確認してみましょう」ということになった。ベッドから降りて、一旦車いすに座ってから立ち上がろうとしたが、体が鉛のように重くて動かない。体が自分の意志の通りに動かない、こんなことは50年近く生きてきて初めての経験だった・・・。

パート2へ続く。

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